ニサルガダッタ・マハラジ
この記事は2021.5.28、18:08に更新しました。
更新内容:用語の変更に伴い、記事を推敲いたしました。
ニサルガダッタ・マハラジ~その人物について~
ニサルガダッタ・マハラジは、その教えを乞う人々に対し、瞑想によって「私は在る(I AM)」という感覚を自覚させ、そこに留まり続けることを生涯に渡って提唱し続けてたアドヴァイタ系のスピリチュアル・マスターです。
ニサルガダッタ・マハラジが言うところの、この「私は在る(I AM)」についてでありますが、現在の私の考えからしますと、それは主として自己意識のことだと考えた方が探求においては実践的に取り組みやすいかと思います。
より広く捉えれば、アウェアネスセンターや空などといった内的エネルギー環境をも含めて良いかと思います。
ちなみに自己意識とは、あのラマナ・マハルシが「私は誰か?」という、その究極の問いかけによって示唆したものに他なりません。
そして、さらに言うなら、マハラジが言うところの「私は在る(I AM)」、すなわち「そこに留まっていれば、いずれは至る」とされているものの究極とは、絶対無の悟りの境地に他なりません。
このような手法は、ラマナ・マハルシが、思考を介さず直接的に「私は誰か?」と問いかけさせることによって、まずは自己意識としての「私」(アートマン:真我)を目覚めさせ、さらには真我の中心である霊的なハートと称する神としての「私」」(ブラフマンとしてのアートマン:究極的な真我)をも目覚めさせさせようとしたのと同じ手法であります。
それらの中で最も最初に必要なのが、「マインド、すなわち思考活動や思考の内容物(想念)に汚染されていない純粋なあなた」、つまり自己意識としてのあなたの目覚めであることは言うまでもないからであります。
さらに高次の魂へと目覚めていくのは、自己意識としてのあなたなのですから・・・
意識として進化していくことができるのは、自己意識としてのあなただけなのですから・・・
さらに言うなら、マハラジが言うところの、意識に先立って在る「実在/絶対/至高/パラブラフマン」とは、意識の根源のであることに他なりません。
魂としての私たちは、そこに在ります。
ニサルガダッタ・マハラジがいうところの〈純粋な気づき〉とは〈気づきの源泉〉である〈意識〉のことであり、〈意識に先立つもの〉とは〈生命力の源泉〉である〈空〉のことであり、〈絶対〉とは〈空の源泉〉である〈神〉のことである。
『三位一体としての私』
木幡 等 Hitoshi Kowata
ちなみに、〈絶対〉にまで至る人は、極めてごく稀でありますので、一般的には、〈自己意識の目覚め〉〈空との継続的な接触状態〉のことが〈悟り〉とされているようでもあります、
彼は伝統的な表現、つまり他者に由来する表現にすがるだけの平凡な教師ではなく、「自身の体験に基づいた自分の言葉」で伝えることのできた本物の師(マスター)です。
そして彼は、ラメッシ・バルセカールやセイラーボブアダムソンの師でもあります。
私がラマナ・マハルシの対話集の次に読んだのが、以下に紹介するマハラジの本『アイ・アム・ザット 私は在る』です。
ラマナ・マハルシの『あるがままに』と並んで、私の修行時代の初めから終わりの頃までお世話になり続けた、とても思い出深い本です。
本とはいえ、もはや私の身体の一部のようなものです。
何度も読み返しては、自身の血肉としていったからです。
自己知識においてまっさらな状態でラマナ・マハルシやマハラジの本を読んだことで、その知識の土台ができ上がったことも、今にして思えばとても幸運なことでありました。
もちろん、その他にも数えきれないくらいの恩寵も重なってはいるのですが・・・
ニサルガダッタ・マハラジ~その教えについて~
対話集『アイ・アム・ザット 私は在る』
これもラマナ・マハルシの対話集「あるがままに」と並んで、私が探求時代の最初から最後の方まで、道に迷うたびに何度も何度も読み返した私のにとっての道標(みちしるべ)となってくれた本です。
「自己の目覚めや進化における本質的なこと」から外れるんじゃないぞと、教え続けてくれた本であります。
本物の師の言葉というものは、理屈抜きに入ってきますから・・・
もちろん、ある程度の直感的かつ知的な理解力が必要なのは、言うまでもないことですが・・・
マハラジの最晩年の対話集である『意識に先立って』の厳しい語り口に比べると、かなり表現が柔らかで丁寧です。
覚者というよりは、学校の先生が小学生に優しく教えているような・・・
マハラジの母性的な優しさの部分がうかがえます。
このことは当時インド国内では無名であったマハラジが、モーリス・フリードマンという西洋人によって西洋で広く紹介されたことにより、マハラジのもとに西洋人が訪れてくるようになったことが関係しているのでしょう。
つまり、いつの時代においても変わりませんが、本当に悟りを求めてマハラジのもとにやってきた人は極めてわずかであり、悟りに関する知的好奇心を満たすためだけにやってくる人が多かったからなのだと思います。
ですから、その教えは来訪者の成熟度に合わせた方便によって、その内容やレベルが異なりますので、初心者向けのものから成熟しつつある探求者向けのものまで、幅広く掲載してあります。
裏を返せば、これはマハラジの対話集に限ったことではありませんが、自分が今どこのステージにいるのかがわからなければ、どのページの教えを取り入れていけば良いのかが迷う方もいらっしゃるかと思います。
それは、
どんなに詳細な地図を手にしていても、自身の現在地がわからなければ、目的地にはたどり着けない
のと同じことなのであります。
対話集『意識に先立って』
本日、私のもとにも届きます。
マハラジの最晩年の教えの対話集ですから、成熟した人のみを対象としたもののようです。
マハラジ流に言うなら、「私は在る」の感覚を自覚している人が対象となるということでしょうかね。
肉体の死を意識した晩年には、教えのレベルを上げて、ほとんど生徒が来なかったと言いますから。
私の教師としての体験からも、教えのレベルを上げると、誰もついてこれなくなるということは、とてもよくわかります。
探求時代の私だったら、待ちに待った出版だと喜んでいたことでしょう。
私は、指導の参考に注文しました。
人間としての私においては、「本物の男」「本物の人間」に触れることのできる喜びもあります。
さて、
タイトルとなっている「意識以前」。
個人的には、マハラジが何をもって意識と定義していたのか、
すなわち「意識以前」というものを、純粋意識や聖なる次元のこととして語っているのか、それとも理解されないことを承知で究極的な非二元の次元のこととして語っているのかが、見どころです。
言い換えるなら、目覚めの状態を語っているのか、悟りの状態を語っているのか・・・
ま、どうせマハラジの話すインドの言語から英語、そして日本語という順序での二重翻訳、しかも当然、悟っていない二人が通訳として介在しているわけから、私が読んでも「なんのこっちゃ?」と、わからない表現にたくさん出くわすこととなるとは思いますが・・・
つまり、また聞きや噂話レベルの精度の情報になる恐れはあります。
しかし、その底流に流れているエッセンスには間違いがありません。
成熟した読者なら、そのエッセンスを飲み干すことができるでしょう。
私からの解説は、この本を読んでから、書いていこうと思います。
とは言いましても、私はもう探求者ではありませんので、一日で読むようなことはありません。
今となっては、気が向いた時にのんびり読みますので、読み終えるのはいつのことやらですが・・・
半分くらい読みました。
先の『アイ・アム・ザット 私は在る』と異なり、こちらはいわゆる悟りを求めている探求者を対象としたものです。
ですから当然のことながら、その語り口は先の『アイ・アム・ザット 私は在る』と比べてかなり厳しいです。
なぜなら、ある観点からすれば悟りへの道は、ゴールに近づけば近づくほど厳しくなってくるからです。
それまでの自力(エゴ)の在り方から、それまで全く馴染みのなかった他力(純粋意識への明け渡し)の在り方へと移行させなければならないからです。
悟りというゴールに近づいても厳しくなってこないなら、純粋意識との接触状態が起きた人はみんな悟れるということになりますが、それなら世界は悟った人で満ち溢れていることになりますし、そうはなっていない厳しい現実があることくらいはご想像がつくことでしょう。
私も純粋意識の目覚めが起きた生徒やお客様を見てきて、そのことは痛感しています。
なぜそのようにはならないのかは、以下のグルジェフの本の観点からの説明も腑(ふ)に落ちるところです。
悟りを阻(はば)む強力な諸力についての言及があります。
話を戻しますが、そのようなわけで、この本でのマハラジは厳しく見えます。
ですが、マハラジが厳しいわけではないのです。
絶対無の悟りの実現がとても厳しいものだから、その教えが厳しくなるのは当たり前のことです。
厳しいのは、悟りにおいての法則であり、マハラジのせいではありません。
私たちの住むこの地球という星には、そのエネルギー的均衡を保つためにも、悟りを阻む強力な諸力、すなわち自己の眠りを誘う強力な諸力が存在しているからです。
よって、時に私の教えが厳しく聞こえるのも、相手のための方便であるのです。
お悩み相談的なものも含む通常のオンラインセッションでは、母性的な在り方で接することもあるわけです。
もっと理解を深めたい!
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